「自殺」を扱うサブカル作品ネタバレ感想
『姉の秘密と僕の自殺』
【形式】マンガ(18禁エロ)
希死念慮を抱えた男子学生と霊能力を持つ少女が織りなす優しいお話です。 人が人を想う気持ちが心に響きます。 内容的には「自殺」そのものを正面から掘り下げる展開というのとは少し違うのですが、 「自殺ネタ」にありがちな上から目線のお説教要素はなく、安心して読むことができると思います。 なお、エロマンガなので万人にオススメというわけにはいかず、その点ご承知置きをお願いいたします。
また、この感想文では「希死念慮」という語を使用しますが、 本作の中でこの語が使われているわけではありません。あくまで私の解釈としてこの語を使っています。 心理学用語としての厳密さにこだわっているわけでもなく、
「具体的に何か "不幸" があるというわけではないけれど、"死にたい" と思う慢性的な気持ち」
というぐらいの意味で使っています。 ある程度汲み取りながら読み進めていただければ幸いです。
(以下、ネタバレ)
■ あらすじ
エロマンガという性質上、お手に取って読むことができないお友達もいらっしゃることでしょう。 大まかな内容が伝わるよう、要点を絞ってあらすじを紹介いたします。 あくまであらすじですので私の解釈を交えつつ端折った要素もあります。 できれば原著をお読みになることを推奨いたしますが、 感想文の内容を理解する補助にしていただければと思います。 (画像の転載はしていません。文章のみ。エロ描写は控えめでお送りします)
以下の各話ごとの [ひろげる] をクリックすると表示されます(動作しますように!)。
--------------------------------▼ 第1話 [ひろげる]
▼ 第2話 [ひろげる]
▼ 第3話 [ひろげる]
▼ 第4話 [ひろげる]
▼ 第5話 [ひろげる]
▼ 第6話(最終話) [ひろげる]
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■ 「希死念慮」の描かれ方には共感できる
主人公の圭壱は学校では友人を作らず周囲から浮いています。 クラスメイトたちがおしゃべりに興じているのを横目に、 何にも興味を持てずに冷やかでいます。
> みんなどうしてそんなに楽しそうなんだろう
> 本当に楽しいと思ってるのかな?
> 仲間外れになるのがイヤだから合わせていたりする?
> いつか必ずみんな死ぬんだ
> それまでがどんなに楽しくても
> 死んでしまえば全て消えてしまうんだ
> 僕もいつか……
ずっと死ぬことばかり考えており、死に方も決めてある。 あとは一線を越えるタイミングを常にうかがっている。
こういう感覚は多くの「お仲間」に共感できるのではないでしょうか? 私は共感できます。 これが「人としてご立派」かどうかであるとか、「真実」かどうかであるとか、 そうした周辺的な議論をし出すとイロイロヤヤコシクなるのでしょうけれど、 そういうことはさておき、感覚的には非常に共感できるところです。
なお、作中で「希死念慮」という単語は使われていないのは前述の通りです。 ちなみに、あとがきの中では「漠然とした自殺願望がある」と紹介されています。 作者がどういう意図だったのかはわかりません。
■ 「希死念慮」自体を正面に据えたストーリーというわけではない
上記の通り、設定上は主人公は「死にたい気持ち」を抱えた人物です。 ただし、そのこと自体は序盤で少し触れられるだけであり、 それ以上に掘り下げて語られることはありません。
また、主人公が希死念慮を持っているのは霊に取り憑かれた影響であるという設定です。 その除霊のためにヒロインの琴音が奔走する、というのがストーリー全体の縦軸となっています。
そのため、「死にたいと思う気持ち」や、生きること、死ぬこと、 そのような気持ちで生きる主人公を取り巻く社会環境、などのような、 「自殺」そのもの、あるいは直接的に関連する事項に向き合って掘り下げるといった内容ではなく、 これを読んだからと言って、自殺についての理解や共感が深まる…… といったことはないものと思われます。
とは言うものの、まったく自殺と関係ないストーリーかと言えばそんなことはありません。 主人公の「死にたい気持ち」を否定することなく、最後まで優しく受容的に寄り添うものとなっています。 詳しくは後述しますが、むしろ、 「死」そのものを直接的に正面から取り沙汰しない内容だからこそ、 変にお説教くさいものに堕してしまうことなく、こうしたことが実現できていると言えるようにも思います。
■ 「上から目線のお説教」のような地雷要素はない
よく「自殺をテーマにした」などというと、いかにもありがちなものとして、 何か悩みを抱えて死のうと思っているキャラにお説教をして努力を促してお悩みを克服…… というパターンが思い浮かびます。 こういうのは普段から死にたい気持ちを抱えている人にとっては余計なお世話以外の何物でもない。 そういうのはイヤですよね? 私はイヤです。
本作は「自殺」そのものを深く掘り下げるようなストーリーではないのですが、 そのおかげで、と言うべきか、 「自殺ネタ」にありがちな、希死念慮や死ぬこと自体を「とやかく」言うようなお説教じみた要素はなく、 希死念慮を抱えた人がこれを読んで傷つくといったリスクも限りなく低いものと思われます。
■ 自殺は否定されているか? 肯定されているか?
「自殺」が扱われているという点に注目して拝読する以上、 作中で「自殺」がどのような扱いになっているのかは見逃せない点です。
単に世間的な価値観のまま、自殺が単なるお説教の対象になっちゃってるのか? それとも何か別の価値観が示されているのか? あるいはマンガのエンタメ要素を彩るネタに過ぎないのか? 本作ではどうなっているでしょうか。
まず前述のように、お説教要素がないという点では、否定的ではないと言えます。
主人公は希死念慮の持ち主。 ヒロインは「私も死のうと思ってたの! 一緒に死なない?」などと言う人物。 この点を見るとストーリーは「自殺」に理解を示す内容であり、 このまま自殺に向かって進んでいくかのようです。 実際、二人で一緒に屋上から飛び降りるシーンまである。
しかし主人公の希死念慮の原因は霊が取り憑いていることであり、 除霊に成功した後は死を望む気持ちがなくなっています。 それを見た琴音が「普通に戻ってよかった」などというセリフもあります。
つまり 「死にたい」などというのは「本心から思うこと」ではなく、 「普通」でもない、という扱いになっています。
また、プロット全体の構造を見ると、 「死にたい気持ちのキャラを、別のキャラが "助け" て、死にたい気持ちがなくなって、解決」 となっており、 これは「自殺ネタ」でありがちなお説教パターンを構造的に踏襲した作りになっています。 「自殺」は「やめさせるべき行為」であり、 「いかにしてやめさせるか?」がストーリーを織り成す。
琴音を始め、主人公の味方として登場する周囲の人々は 結局のところ主人公を「死なせない」ことを目的としている。 「一緒に死のう」というのは取り憑いている霊を満足させて除霊するための「作戦」だったのであり、 琴音自身の本心ではありませんでした(少なくとも直接的には)。
そもそも「自殺」そのものを正面から掘り下げるストーリーではないというのはすでに述べた通りです。 明確な「お説教」こそないものの、 最終的には「死=悪」「生=良」という一般常識に軟着陸する展開となっており、 「自殺」を扱ったマンガという点に注目して読むと、 何か、うまくはぐらかされてしまったような印象を受けます。
では本作は自殺を単に「お悩み解決」するだけの薄っぺらい予定調和の物語なのでしょうか? そうとは言い切れません。
最終的には主人公を「死なせない」ことが目的となってはいるものの、 「死にたい」という思いそのものが直接的に批判されることはありません。
その「死にたい」思いは霊が取り憑いているのが原因だったわけですが、 最初からそれを明かすことはありません。
もしも、序盤で琴音が圭壱に会いに来た時点で、 「あなたが死にたいと思うのは霊が原因だから祓ってあげる」 などと言っていたらどうなっていたでしょう? 「お説教」に負けず劣らずお節介なものとなってしまっていた可能性が予想されます。 これは単にプロットとしての話の引っ張りという以上の意味があると言えるように思われます。
除霊のためには「圭壱が自分から死ぬと決めて飛び降りる」必要があった。 これも単に、話の都合上の設定というだけのことではなく、 「死にたい」という気持ちに対し、本人(霊=その気持ち)の気が済むまで 徹底的に寄り添うことの大切さが表現されている……そんな気がいたします。
琴音は圭壱を死なせないために圭壱の前に現れた。 しかしそれを最初から表には出さない。 「一緒に死のう」と言い、本当に一緒に飛び降りさえする。 作中では結果的に琴音も助かりはするものの、自分はそのまま死ぬつもりだった。
琴音の口から語られる「死後の世界」の話も、 「自殺者の方が "死ぬ気で死ぬ" から成仏が早い」等、自殺を否定しないものとなっています。 これについては、あくまでも圭壱を安心させるために言っただけ、という可能性もなくはありませんが、 単に自殺をやめさせればいい、と、相手の意志を曲げることを目的としているのであれば、 むしろ逆の内容のことを(嘘でも)言いそうなものです。
ここには一つの矛盾もあります。 死が悪いものではないというのであれば、なぜそうまでして圭壱の死を防ごうとするのでしょうか? 確かに理屈で言えば割り切れないものは残ります。 しかしここで重要なのは表面的な(表現上の)肉体の「生存/死亡」ではなく、 圭壱の幸せを願っている、という琴音らの想いであると思われます。 本人の意志を曲げて、肉体だけを生存させて「救ってやった」などと満足するのではない。 圭壱の幸せ=精神的な意味で「生かす」こと。
身を捨てるほどの覚悟で相手の心に寄り添ってこそ、 単なる肉体的な生き死にを越えた意味で相手を「生かす」ことができる。 ここにはそのような精神性が表現されていると私は受け止めたく思います。
■ 「あなたは大切に想われている」という空間
ストーリーの縦軸は琴音による圭壱の除霊となっておりますが、 これは後で振り返ってみればそういうことだった、という話。 最初から「あなたの希死念慮は霊が原因だから除霊してあげる!」などと言わない、というのは前述の通り。
除霊と言っても、何か、いかにもオドロオドロしい儀式をする……などということではない。 琴音はただ、圭壱と親密な時間を過ごします。
実の姉であると名乗る琴音と行動をともにするうち、 圭壱は幼い頃の記憶を少しずつ思い出していきます。
今まで忘れていた家族の記憶。あまり思い出したくはなかったこともある。 そもそも今の家族とも折り合いはあまり良くない。 生きていて楽しいわけでもない。 序盤に「頭に憑いていた霊」を1つ取ってもらい、「頭の中がクリア」にはなった。 それでも死にたい思いは変わらない。 自分は死んだ方が良いのだという思いはむしろ確かなものとなっていく。
しかし最終的に琴音との「飛び降り」を経て、 そんなふうに思う必要はなかったことが分かるとともに、 自分のことを大切に想ってくれている人が周囲にいたことに気付く。 「死ぬ気」がなくなった後は、 今までお世話になっていた(今の)姉のために戦えるようにもなります。
……と、こうして読後に思い出して筋書きだけを抜き出してみると、 なんだか予定調和の訓話めいたキナ臭さが漂いますが、 実際に読んでみるとそういう印象は受けません。
大きな理由として挙げられるのは、主人公の「今の」両親が一度も登場しないことでしょう。 「姉」を除く両親とは折が悪いふうなことが書かれてはいますが、 直接その様子が描かれることはありません。
また、学校では友人はおらず孤立していることになっていますが、 かと言って何か直接的に敵対しているような様子も描かれません。
記憶の中で想起される幼い頃の件に関しても、 直接何か恨みを溜め込むような出来事は登場しません。 あくまで圭壱自身が、自分を取り巻く「この世」に対し、 引け目や所在無さを募らせているという描かれ方です。
と言っても、露骨に何か「自分はこれこれの理由でダメ人間なのだ」などと言うような、 世間的な価値観を大きく意識した対比での卑屈な発言があるわけでもありません。 むしろ圭壱が感じているのは世間的な「価値」からは距離を置いた虚無感に近いものです。 もちろん観念的に「そんな態度は間違っている!」などというお説教も出てこない。 そのため、ストーリーに押し付けがましさというものがありません。
これが例えば、何か直接的に自分に危害を加えていた人物が登場して、 実はそれが圭壱のためを想ってのことだったことが判明して、恨みを忘れて赦さねばならない、的な筋書きだったり、 あるいは何か世間的な価値観との対比で「もっと "頑張る" べきである」といった筋書きだったりしたら、 まさしく説教そのもの・押し付けがましい・恩着せがましいものになってしまっていたことでしょう。
圭壱に被害を与えるような存在はない。価値を値踏みするような存在もない。 丁寧に虚無感が育まれる。決して否定などされない。 自分のことをずっと大切に想ってくれている人がいた。 だからこそ、「今の」姉のために誰にも頼らず戦うこともできるようにもなった。 優しくされたい、構って欲しい、という 幼い頃から抑え込んでいた自分の本心(生霊)と向き合うこともできた。 「私達はそんな圭壱が大好きなの」 琴音の言うこのセリフの主語が「私達」と複数形であるのは決して意味のないことではないでしょう。 「良し悪し」を語るのではない。「大好き」と言ってくれた。 だからこそ、圭壱は「こっちが本当の自分なのかな……」と受け入れることができたのではないでしょうか。
死にたいと思うことも、優しくされたい、構って欲しいと思うことも、 決して抑圧しなければならないようなことではない。 そんな受容的で優しい空間がここにある。
家庭環境や人間関係は人それぞれです。 このマンガはあくまでマンガに過ぎず、 ましてや「琴音」のような「救い主」が誰にでも現れるというものではないでしょう。 その設定だけの出オチであれば、このマンガは単に 「不幸な境遇に美少女が現れてイチャイチャ……」という即物的なものに過ぎなかったでしょう。
"どこまでが本当のことだったんだろう? それとも全部僕の空想か……"
空想でもなんでもいい。
結局、琴音と主人公は結ばれることはありません。
"先に行って待ってます。幸せでいてください"
離れたところから、無私の愛を放って琴音は姿を消します。
フィクションである以上、「予定調和」なのはある意味当然とも言えます。 しかし「琴音」の存在は「どこまでが空想かわからない」という中から、 空想と現実の垣根を越えて慈しみを伝えてきてくれるかのようです。
■ 作中で琴音の口から語られる死生観
第5話で琴音の口から死後の世界について語られる場面があります。
「そう言えば……やっぱり自殺したら成仏できないのかな?」
と尋ねる圭壱に、
「いいえ、自殺した人の方が成仏できるわ」
とキッパリ答えています。
その箇所の会話を引用します:
「そう言えば……やっぱり自殺したら成仏できないのかな?」
「いいえ、自殺した人の方が成仏できるわ」
「え?」
「『死ぬ気で死ぬ』からよ。ほとんどの自殺者は成仏まで早いわ」
「へぇ……」
「誰かへの当て付けで自殺する人もいるけど、そういう人は成仏しないみたいね。 病死、事故死、老衰、殺人、そうやって死んだ人の方がこの世の彷徨っているわ。 ほとんどの霊はそれよ? 圭壱だって見えるんだからわかるでしょう? 自殺した人の霊が全然いないって」
「いや、僕はそこまでわからないから……」
「そう? ちなみに、自殺したからって地獄に行くとは限らないから……」
「地獄!? あるの!?」
「舌を抜かれたり釜茹でされたりとかそういうのじゃないみたいだけどね、残念だけど。 同じように天国もあるわ。 死んだってそれで終わりじゃない。 天国でも仕事はあるし、結婚もあるのよ。 それに、セックスもできるから」
これは圭壱が最初に尋ねたように、世間でよく言われる自殺にまつわる死生観とは逆です。 「自殺」というものに常識にとらわれずに向き合いたいと考えている私たち(?)にとって 非常に興味深いものではないでしょうか。
ただの作り事にしては、妙に説得力を感じる内容です。 しかも、マンガの1シーンとしては不自然に説明的なように思われます。 単にストーリーを進めるためだけに、ここまで長々と琴音の口から語らせる必要はあったのでしょうか?
ストーリーはこれ自体を掘り下げるような内容ではないのですが、 それだけに、逆に、一体何のためにこれが語られているのか……と、思わず深読みしてしまいたくなります。 ストーリー全体からこの箇所だけを切り出して取り沙汰することの野暮さは承知ながら、 この箇所だけ妙に浮き上がって見えてしまうのも正直なところではあります。
あとがきの中で、 「これを描くにあたって、知人の、いわゆる『霊能者』と呼ばれる人から聞いた話を一部設定に使いました」 と述べられています。 それがこの死生観のことを指しているのかどうかは定かではありません。 が、あながちデタラメな話というわけではないという可能性が示唆されるところではあります。
あるいは作者が自分で詳しい設定を考えたものの、 ストーリーの中で直接的に活かす場面がなかったため、 せっかく考えた設定を眠らせておくのはもったいないと感じ、 この場面で琴音の口を借りて語らせただけ、なのかもしれません。
またはフィクションであるにしても、 琴音が圭壱を安心させるために口から出まかせを言った、という可能性もあります。
いずれにせよ、そもそも、これに限らず死生観などというものの真実は誰にも確かめようのないことではあります。 何を言っても結局は生きている人間が言っただけというのは否定しようのない「事実」です。 深い意味があるせよ無いにせよ、実質的には何も言ってないのと同じであり、受け止める人次第ということになるでしょう。 とは言え、たとえて言うならジャンケンの前に「チョキを出すよ」などと予告するような、言い知れぬプレッシャーは生じます。 語られてしまった以上、無視はしがたい。
この死生観をどう受け止めるか、および自殺の是非についてここで私から語るのは控えて、貴方の判断に…… と言って筆を置いてしまいたいところではあります。 しかし、わざわざこうして紹介してしておきながらそれではなんだか卑怯な話。 というわけで以下に私なりの解釈も少し書かせていただこうと思います。
さて、一見すると、まるで積極的に自殺する方がよいと言っているかのようではありますが、 そう解釈してしまうのは少々早計という気はいたします。 大事なのは心から納得して死を受け入れる、ということのように思います。 だから、もっと生きたかったのに意志に反して死んでしまう場合は「この世を彷徨う」のであり、 たとえ自分から死を選んだのだとしても「誰かへの当て付け」で自殺する人は成仏しない。
だからこそ本作で示されているように、 「死」や「死へ向かう気持ち」を否定することなく寄り添うことが大切となるのでしょう。 それはさらに突き詰めて言えば単に肉体的な意味での結果的な生き死にということではなく、 人が人を大切に想い、その幸せを願うこと。 そこにこそ、生き死にを越えた全ての本質がある。そんな気がいたします。