キカイテンシ
【システム:分岐あり】 【目安総プレイ時間:2時間】 【制作:「キカイテンシ」制作企画チーム様】
主人公の青年が遺跡で「天使」と呼ばれる従順な人型ロボットを目覚めさせ、元彼や別の「天使」たちを交えて交流を深めていくノベルゲーム。
直接的な描写はありませんがBL方面の刺激的な文章多め。
[このゲームが公開されているページ]
http://www.vector.co.jp/soft/dl/winnt/game/se451244.html
[公式サイト]
キカイテンシ公式HP
■ プレイガイド
随所にBL的お色気テキストが配置され、読者に楽しんで貰おうという強力な意志を感じます。 対象キャラは3名。結末は6通り(公式情報より)。選択肢はシンプルに分岐の要所のみ。 バッドエンドの際は分岐前の選択箇所に戻れる仕様。 難しく構えなくても確実に全ての物語を味わえる作りです。
■ 感想と考察(ネタバレ)
BL的なお色気要素だけでなく、 物語内容的にも興味深い所がありますね。 「機械仕掛けの天使」は主の願いを叶えることを自身の「幸せ」とする。 ではそんな天使を「幸せ」にするには、主である自分は逆に「傲慢」になるしかないのか? そのように苦悩する主人公は、一体どういう答えを出すのか?
以下、ネタバレ前提の文章です。
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作中で冒頭から断片的に語られる「天使の叛乱」の伝説があります。 これについて最初は単純に「人間が身勝手な要求を続けるから天使が怒って叛乱を起こした」というようなことかなと思ったのですが、 どうもそういうことではなさそうですね。
天使はあくまでも主の「願い」を忠実に叶えるようにプログラムされている。 感情があると言っても「怒り」のようなものではない。 主を批判するような人間的道徳心を持っているというわけでもなさそうです。
しかしその「忠実に主の願いを叶えようとする」というところが災いして、自己矛盾に陥り「暴走」することがある。 それが「天使の叛乱」の正体ということかな、と解釈しました。
逆から言えば、人間の内面にある願望や欲望は常に矛盾を抱えており、 それを全て叶えようとすれば破綻せざるを得ない、というのが「天使の叛乱」の含蓄と言えるでしょうか。 いくら「忠実な機械天使」を発明したとしても、矛盾する欲望はそもそも叶えることは不可能なのであり、 天使が忠実であればあるほど人間側の矛盾が露呈し、人間は矛盾した自分自身に向き合うほかない。
主人公のアーベントは元々は生身の天使を発見するつもりはなかった、というのも注目点ですね。 自分が元彼のライアンや両親からされていた(と本人は思っていた)ような身勝手な愛され方をしていたと思われる1000年前の機械天使に 自分を重ね合わせ、当時の人間を「傲慢」と非難しつつ、天使の亡骸を「手厚く葬る」つもりでいたのでした。 アーベント本人に言わせれば「自己満足かもしれないが」というその行動は、 ある意味では古代の人間、あるいは自分を捨てた両親、さらにはライアンに対する「当てつけ」のような意味合いがあったのではないか。
しかし期せずして生身のラミエルと出会ったことで自分自身が「主」という立場になってしまった。 過去の人間を「傲慢」と非難していたアーベントですが、 「では自分だったらどうするのか?」という「生きた問い」に直面せざるを得なくなったわけですね。
この点、ライアンがアーベントを評して言った 「生身の人間の思惑を推し量るより、干からびた人間の思想に想いを馳せることに勤しんでいた」というのは、 他人を批判するのは簡単だが、自分が同じ立場になったらどうするというのか? という指摘のようにも聞こえますね。
「天使の叛乱」の原因となったという「人間の傲慢さ」に関しては、 アーベントが文献を紐解いて「人間の傲慢さばかりが目についた」と語ってはいますが、 本文中では直接的に「人間の傲慢さ」が描かれるシーンは出てこなかったように思います。 これも実は、自分自身を「天使」に投影していたアーベントにとっては文献の記述が「そういうふうに見えた」ということだったのではないか?
さて、その「傲慢さ」ですが、 ラミエルは主の願いを叶えることで「幸せ」を感じる「機械仕掛けの天使」なのでした。 ならば、そのラミエル自身の幸せを願うならば、むしろ、主である自分はラミエルに要求を押し付ける「傲慢」な人間になるしかないのではないか? しかしアーベントとしては「それでは、1000年前の人間たちとなんら変わりは無いではないか」というわけですね。 「利他」が成立するにはもう片方に「利己」が必要という論理的隘路が浮かび上がってきます。そこにアーベントはどのような答えを出すのか?
もしもラミエルが「生身」ではなく「亡骸」だったならば、 1000年前の人々、ひいては自分を捨てた(と少なくともアーベントは思っている)両親やライアンのことも暗に含めて、 「傲慢なやつらめ」という批判を一方的に胸に抱いたまま「埋葬」できたのかもしれないところですが、 期せずして自分が生身のラミエルの「主」になったことで、他人事として切り捨てるわけにはいかなくなった。
アーベントがラミエルの忠実さを前にして、 「自分が探していたのは本当は亡骸だったなんて言ったら、ラミエルはその "願い" を叶えるために死んでしまうのではないか」 と逡巡するシーンがありました。 これも単にラミエルに死んで欲しくないというだけではなく、 自分が直面することになった「生きた問い」を、再び「見なかったことにしてしまう」ことへの罪悪感という面もあるのではないか? アーベントは他人事として「人間の傲慢さ」を批判するのではなく、自分自身の生きた現実として向き合うことを選んだ。
実は最初に読んだとき、冒頭で仄めかされていたような「昔の人類が犯した罪」のようなものがあまり語られていないようで、少々物足りない印象も受けたのですが、 全体を振り返ってみると本作品は「昔の人類」を一面的に批判するというのではなく、 むしろ現在の生きたストーリーとして、生身の人間である主人公が、生身の他人との向き合い方を見つけていく物語だったのかなと思います。
本編中でアーベントが出した「答え」も完璧なものではないのでしょうけれど、 だからこそ、その不完全さをも含めて、「生きた物語」として続いていくのではないか……と想像します。