「たくさんの願い事があるね」
境内の通路の脇に立てられている竹のそばで七夕の短冊を見つめる。
「そうですね」
俺も先輩に並んで、短冊を見つめる。
あまり人の願い事を見てはいけないような気もしないではないが、ついつい見入ってしまう。
一目で子供が書いたものとわかるような短冊が多い。
"さかあがりできますように"
"せがたかくなりたい"
"かけっこはやくなりますよに"
"字が上手になりますように"
"せがたかくなりたい"
"かけっこはやくなりますよに"
"字が上手になりますように"
判読に窮するような文字が細い短冊全体に踊っている。おそらくはサインペンを使うことにも慣れていないのであろう。
そんな中、ときどき妙に整った文字のものもある。
"弟の目が治りますように。"
深刻な内容だ。一体どんな思いでこの短冊を書いたのだろう?
他にもいろいろある。
"入試に合格できますように"
"宝くじが当たりますように(今年こそ!)"
"家族が元気でありますように"
"みんなが笑顔でいられますように"
"世界が平和でありますように"
"宝くじが当たりますように(今年こそ!)"
"家族が元気でありますように"
"みんなが笑顔でいられますように"
"世界が平和でありますように"
深刻さやスケールはさまざまだ。
意外と多いのが「家族の健康」と「世界平和」であることに気付く。
俺はてっきり我欲にまみれた願いばかりかと思っていたが、案外そういうのは多くない。
紋切り型の言葉とは言え利他的な意味合いの願い事が少なくないことに俺は少しだけ驚いた。
「願い事かぁ……」
先輩は笹を見上げて遠い目をしている。
少し離れた位置で、母親と思われる若い女性に連れられた女児が背伸びをして短冊を枝先にかけていった。
傍らには記帳台があり、誰でも短冊を書けるようになっているようだ。
「先輩は何か書かないんですか?」
「どうしようかな……」
書くという選択肢も思い浮かべていないことはない、ということのようだ。
「折原くんは?」
「え? 俺は……どうしようかな」
話を振った手前、書かないとは言いにくいが、正直ちょっと恥ずかしい。
こうしている間にも傍らの記帳台には時折人が訪れているが、そのほとんどは親子連れであり、書いているのは子供の方だ。
俺のような大きいお友達があそこに立つのは場違いなのではないか?
しかし先輩がそうしたことを気にしているとは思えない。
「先輩は、何か書こうと思ってたことがあるんじゃないですか?」
「……こういうのって、何を書けばいいんだろう? わからなくなっちゃった」
「何を書くって……願い事、ですよね」
「願い事って何だろう? みんな、何を願ってるんだろう?」
短冊はたくさんある。短冊の数だけ願い事が枝から下がっている。
具体的には一つ一つが別の内容だ。
何を願っているか、と問われれば、それぞれに書かれている通り、としか答えようがない。
だが先輩が言っているのはそういうことではないだろう。
仮にここに書かれていることが全てその通りに実現したとしたら、それで誰もが満足なのだろうか?
たとえば "入試に合格しますように" とあるが、誰かが合格すれば別の誰かが代わりに落ちるのだ。
こんな問いはただ底意地が悪いだけだろうか?
いや、そういうことではない。嫌味を言うのが目的ではないはずだ。俺にとっても、もちろん先輩にとっても。
短冊に書かれている個々別々の具体的な要求の背後にあるもの。そういうものがあるはずだ。
つまるところ、人は何を求めているのか?
「幸せになりたい……ってことじゃないでしょうか?」
幸せになるために人は生まれてきた。
以前、宇宙で先輩が言っていたことだ。
「幸せ……。幸せって、何だろう?」
具体的に何が幸せであるのか?
そんなことはわからない。
だがそれは確実に目的であるはずなのだ。
しかしこんな結論に何の意味があるだろう?
幸せが目的。これはほとんど同語反復なのであり、実のところ何も言っていないのと同じなのではないか?