「みんながゆっくり動いてくれれば、時間もゆっくり流れるのかもしれないな……」
そうかもしれない。
さっきの後藤のように急がなければならないのはなぜかと言えば、まわりの人々が待ってくれないからだ。
後藤が到着するのを待つことなく電車は発車し、チャイムは鳴り、信号は切り替わる。
そのどれも、人が作り、動かしているものだ。
時間とは人が流しているものなのだ。
そして、急がなければならないのはなぜかと言う問いに、おまえが遅れるのが悪い、という答えが用意されるのだろう。
玄関ホールの時計の針がまた1分の経過を刻み、バネの振動音が鈍く響いた。
窓から差し込んでくる光の角度がまた一段と低くなり、反対側の壁にオレンジ色に縁取られたシルエットを投影している。
こうしている間にも容赦なく地球は回っている。
地球だけは人の意志とは無関係だ。そしてその地球の上で全ての地球人が容赦なく回されている。
「ねぇ、さっきは私、地球は私がいなくても回ってるって言ったよね」
「ええ」
「だけど、実はね、あれ、本当に本当かどうかは、わからないんだ」
「どういうことですか?」
「だって、もし地球に誰も人がいなかったら、誰も地球がどんな様子か、確かめられないでしょう?
人類は人類が誕生する前の地球を本当には知ることができないし、人類が滅んだ後の地球のことも知ることはできない。
人類が知ってる地球は、いつだって、人類が住んでる地球ってことになる。
だから、地球上に誰もいなくなったらどうなるのか、本当は誰にもわからない」
人類は人類が誕生する前の地球を本当には知ることができないし、人類が滅んだ後の地球のことも知ることはできない。
人類が知ってる地球は、いつだって、人類が住んでる地球ってことになる。
だから、地球上に誰もいなくなったらどうなるのか、本当は誰にもわからない」
「つまり、誰もいなくなったら、地球は回らなくなるかもしれない、ってことですか?」
「そういうこと。
だとしたら、地球を回してるのは人間の力ってことになるよね。
もちろん、一人で回せるわけじゃなくて、みんなの力で回してる。
誰かがリーダーになって回り方を決めてるわけでもなく、みんながそれぞれに地球上で動いてる結果、回ってる。
だから、誰も自分が回してるとは思ってない。
ねぇ、これって、何かに似てると思わない?」
だとしたら、地球を回してるのは人間の力ってことになるよね。
もちろん、一人で回せるわけじゃなくて、みんなの力で回してる。
誰かがリーダーになって回り方を決めてるわけでもなく、みんながそれぞれに地球上で動いてる結果、回ってる。
だから、誰も自分が回してるとは思ってない。
ねぇ、これって、何かに似てると思わない?」
そこにいるみんなの力で結果的に回っている。
それでいて、誰も自分が回しているとは思っていない。
これは……。
「……コックリさん、ですか?」
「うん。この前、生徒会室でやったよね。あれにソックリ。
地球は大きな10円玉で、実はみんなで動かしてるの。
だけど誰も自分が動かしてるとは気付いてない。
10円玉と違って自分の体よりも大きいから、自分がその上に指を乗せてること……乗ってることも忘れてしまう」
地球は大きな10円玉で、実はみんなで動かしてるの。
だけど誰も自分が動かしてるとは気付いてない。
10円玉と違って自分の体よりも大きいから、自分がその上に指を乗せてること……乗ってることも忘れてしまう」
そうか。時間は人が流しているとは言え、地球の回転だけは例外かと思ったが、 それさえも人間の仕業である可能性から逃げられないというわけか。
「みんなが地球に乗せてる指を離せば……地球から離れれば、地球は止まるかもしれない。
……なんてね。そんなの無理だけどね」
……なんてね。そんなの無理だけどね」
もちろん無理に決まっている。
そして仮に地球が止まったとしても時間が止まるというわけではない。そんなことは先輩だって百も承知だろう。
「地球から離れる、か。ジャンプでもしてみますか」
「ジャンプか。うん。それだ。それだよ!」
皆月さんはその場で両膝を曲げて力をため、垂直に跳び上がった。
着地の瞬間、長い髪とスカートの裾が空気に乗って泳いだ。
ポーズを決めてニヤリと笑う。
「ほんの少しだけ、地球の回転が遅れたかな?」
「ほんの少しだけ、ですね」
地球の人口が70億人なら、70億分の1だけ。
「折原くんも手伝ってくれないかな?」
「え、俺もですか……?」
70億分の2になる。
しかし急に気恥ずかしさがこみ上げてきた。
飛び跳ねることぐらい野球部にいた頃は毎日のようにしていたことなのに、どうしてだろう?
こうして運動着でもない普通の制服を着たまま、グラウンドでも体育館でもないこの場所で飛び跳ねるとなると、途端に常識外れな感じがする。
無意識に辺りを見回す。朱色に染まった玄関ホールに、今は俺と先輩の2人だけ。
一瞬、この宇宙に俺と先輩の2人しかいないような錯覚に襲われた。
だがそれは違う。この地球上には俺と先輩の他にも無数の人々が住んでいるのだ。
今この瞬間も俺や先輩や後藤や俺の知っている人たちや俺の知らない人たちを乗せて足元の地球は回っている。
「じゃあいくよ、せーの……」
俺の心の準備ができるのを待たず、先輩が音頭を取り始めた。
先輩と同じように俺も膝を曲げて力をためる。
「それっ!」
跳躍。一瞬の浮遊感。空中で、髪を乱した先輩と目が合った。
今この瞬間、足の裏から離れた地球は俺とも皆月先輩とも関係なく回っているだろうか? 少しは回転を遅めただろうか?
地球さえも10円玉なら、チャイムも信号も電車も10円玉だ。
後藤が乗ろうとしているのは人が乗ることができてレールの上を走るちょっと大きめの細長い10円玉だ。
電車に乗る人たちが作っている時間、ほんの少しだけ遅くなれ。
チャイムや信号で動く人たちが作っている時間、ほんの少しだけ遅くなれ。
地球に乗っている人たちで作っている時間、ほんの少しだけ遅くなれ。
そして足の裏に、少しの衝撃とともに床の感触が戻ってきた。
「……何やってんだろうね私たち、こんなところで」
「本当ですね。何やってんですかね俺たち、こんなところで」
先輩と顔を見合わせて笑った。
「あの子、無事に間に合うといいな」
無力だけれど、願いがある。